屋上で月を待つ

STORY · 創作
創作日記
創作(フィクション)
古い団地の屋上へ出る扉は、ふだん鍵がかかっている。
その鍵を、今夜だけ貸してもらえることになった。管理人さんに、月を見たいのだと言ったら、少し考えてから、引き出しの奥の小さな鍵束を出してくれた。十時までには返してね、とだけ言われた。
錆びた鉄の扉を押すと、思っていたよりずっと広い空があった。給水塔の影、手すりの向こうに並ぶ屋根、遠くの線路を渡る電車の灯り。風が少し冷たい。上着の襟を立てて、コンクリートの縁に腰を下ろした。
東の空はまだ暗い。予報では、もうすぐ月が昇るはずだった。
待つあいだ、街の音を聞いていた。どこかの家で皿を洗う音。自転車のブレーキのきしみ。犬が一度だけ吠えて、すぐにやめた。地上にいるとひとつに混ざって聞こえる音が、ここではひとつずつ、離れて届く。
ふと、東の家並みの端が、ほんのりと明るくなった。最初は街の灯りかと思った。けれど、その明るさはゆっくりと形を持ち、屋根の線の上に、橙色の縁がのぞいた。
昇りはじめの月は、思っていたよりずっと大きくて、ずっと近い。屋根から離れるにつれて、色が少しずつ白に近づいていく。その途中の、言葉にしにくい色を、しばらく黙って見ていた。
十時少し前に、扉を閉めて鍵をかけた。管理人室の窓に鍵束を返すと、どうだった、と聞かれた。うまく答えられなくて、大きかったです、とだけ言った。
部屋に戻ってカーテンを開けると、月はもう高く、いつもの白い月になっていた。あの橙色の数分間を知っているのは、今夜の屋上だけだ。
この文章は創作(フィクション)です。登場する出来事や人物は実在のものではありません。