湯気の向こうの山

STORY · 創作
創作日記
創作(フィクション)
湯気の向こうに、大きな山の絵があった。
日曜の夕方、久しぶりに近所の銭湯へ行った。のれんをくぐると、木の下足札の鍵がからりと鳴る。番台の人は小さく会釈しただけで、何も言わない。その素っ気なさが、なんだか心地いい。
湯船の正面の壁いっぱいに、ペンキの山が描いてある。青い空、白い雪、手前には松と、穏やかな湖。子どものころから見ている絵だけれど、よく見ると、湖の端に小さな舟が一艘浮かんでいるのに、今日はじめて気がついた。舟には誰も乗っていない。
熱い湯に肩まで沈むと、体の輪郭がゆっくりほどけていく。隣では、年配の人がふたり、天気の話をしている。明日は晴れるらしい。そうか、と思う。それ以上の情報はいらない。
この絵は、何年かに一度描き直されるのだと、前に聞いたことがある。塗り重ねるたびに、少しずつ山の形が変わるのだそうだ。描く人が変われば、雪の量も、松の枝ぶりも変わる。同じ山なのに、同じではない。
湯から上がって、脱衣所の扇風機の前に立つ。ガラス瓶の牛乳を一本買って、腰に手を当てずに、普通に飲んだ。窓の外は、もうすっかり暗くなっている。
帰り道、首にかけたタオルが夜風に冷えていく。体の芯だけが、まだ湯の温度を覚えている。
次に来るとき、あの舟はまだ湖に浮かんでいるだろうか。描き直されたら、いなくなってしまうかもしれない。それでもいい、と思う。そのときは、きっと別の何かに、はじめて気がつくのだろうから。
この文章は創作(フィクション)です。登場する出来事や人物は実在のものではありません。