公衆電話の十円玉
STORY · 創作
創作日記
創作(フィクション)
駅前の公衆電話の上に、十円玉が一枚置いてあった。
ガラスの箱の中、緑色の電話機の、受話器を置く台のすぐ横。誰かが使ったあと、取り忘れていったのだろうか。それとも、次に使う人のために、わざと置いていったのだろうか。
この電話ボックスの前は毎日通る。けれど、中に人が入っているのを見たことは、ほとんどない。夜になると、天井の白い灯りだけが、誰もいない箱をずっと照らしている。駅前でいちばん明るくて、いちばん静かな場所だ。
子どものころは、ここからよく家に電話をかけた。塾の帰り、雨が降ってきたとき。十円玉を握りしめて、緊張しながら番号を押した。呼び出し音が鳴って、母の声が聞こえると、急に安心した。会話はいつも短くて、言いたいことの半分も言えないうちに、ぷつりと切れた。
今は、ポケットの中の電話で、どこからでも誰にでもかけられる。だから、この箱を使う理由はもうない。
それでも、今夜は扉を開けて中に入ってみた。閉めると、外の音が急に遠くなった。古い電話帳が、鎖でつながれてぶら下がっている。十円玉は、思っていたより冷たかった。
受話器を持ち上げると、つーという音がした。まだ生きている。どこにもかけずに、少しだけその音を聞いて、受話器を戻した。
十円玉は、元の場所に置いて出た。たぶん、あれは置き忘れではない。この箱を、まだ必要とする誰かのために、誰かが残していったのだ。そう思うことにした。
帰り道に振り返ると、白い灯りの中で、十円玉が小さく光っていた。
この文章は創作(フィクション)です。登場する出来事や人物は実在のものではありません。